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論争を生む映画『ジョーカー』 [映画]

映画『ジョーカー』が様々な反響を呼んでいる。

作品の内容や“形式”については、賛否両方の声が挙がっている。
様々な理由から『ジョーカー』を「観ない」と宣言する人も現れており、
『ジョーカー』に心を打たれたという人と、
『ジョーカー』という作品を否定する人の距離感は増すばかり。
この分断はなぜ生まれているのだろうか。

・『ジョーカー』への批判

『ジョーカー』に対する批判の主なものとして、作中の重要なシーンで
性犯罪者であるゲイリー・グリッターの楽曲が使用されている、
精神疾患を患っている人間を犯罪者として描いている、
貧困に追いやられた末の解決策として暴力を肯定している、
といった声が挙げられる。

・強烈な“ジョーカーの論法”

だが、この『ジョーカー』における“形式”を否定すること自体を、
『ジョーカー』の物語が拒絶する。
同作のクライマックス、コメディショーに登場したアーサーは、
「コメディは主観だ」と主張し、
何が笑えて何が笑えないかは人々が勝手に決めていると指摘する。
世間はエリートが殺されれば悲しむが、
自分のような底辺の人間が道端で倒れていても見向きもしないではないか、
と。

全ての意見を
各人の“主観”として片付けてしまうこのジョーカーの論法は、
他者の意見を否定はしないが、
全ての意見を (半ばどうでもよさげに) 肯定することで
自分の意見をも無条件に肯定してしまう。
「お前が私の命をどうでもいいと考えるのなら、
私もお前の命をどうでもいいと考える」
と。

アーサーは
「何が尊くて、何がそうでないか、
それを決めているのはお前たちの主観じゃないか」
とうそぶく。
こうした『ジョーカー』の論法の前では、
あらゆる批評や評価が無下にされてしまう。
ここに、映画『ジョーカー』を容易には評価できない理由がある。
アーサーに共感した観客にとって、
『ジョーカー』に対する率直な批判は、
「貧困や障がいといった
アーサーの困難に見向きもしない人々の主観から生まれたもの」
としか映らないからだ。
こうして現れた分断は、一筋縄で埋まるものではない。

・公開前から始まっていた“仕掛け”

そして、『ジョーカー』の指揮をとったトッド・フィリップス監督と
主役のアーサーを演じたホアキン・フェニックスは、
公開前から『ジョーカー』という作品を明確に定義することを避けてきた。
トッド・フィリップス監督は『ジョーカー』の評価を
「見る人がどのようなレンズを通して見るかによって決まる」と語り、
ホアキン・フェニックスはジョーカーを「定義し難い」と形容している。

トッド・フィリップス監督もホアキン・フェニックスも、
ジョーカーを“悪”と捉え、そう描いているという点は強調してきた。
つまり、「ジョーカーをヒーローとして描いている」という批判は、
そう評価した人自身が
ジョーカーにヒーロー的な要素を見出しているという反証にもなり得る。
監督は、「『ジョーカー』は政治的な映画ではない」と述べ、
劇中でもアーサーに「私は政治的ではありません」と言わせている。
この作品を政治的だと捉えることもまた、
観客の主観でしかないというロジックが成り立つ仕掛けになっているのだ。

・ジョーカーの“主観論”を超えて

『ジョーカー』への批判が、批評者の“主観”だと拒絶されないためには——
こうして露わになった分断を乗り越えるためには——
私たちは何を考え、どう表現するべきなのか。
「アーサーが異常なだけだ」という一方的な自己責任論への拒否感こそが
『ジョーカー』への共感を生んだのだとすれば、
私たちは、ジョーカーのロジックを否定しながら自己責任論に陥らない
アクロバティックな理論を見つけ出さなければならない。

この論考は『ジョーカー』という作品を否定するものではない。
トッド・フィリップス監督が「映画は社会の鏡」と述べたように、
『ジョーカー』はこの社会に存在する分断を露わにしただけだ。
だが、『ジョーカー』は乗り越えられていくべき作品である。
私たちはジョーカーの論理を乗り越える“何か”を
見つけ出すことができるはずだ。少なくとも、そう信じるべきだ。

性犯罪者である
ゲイリー・グリッターの楽曲を使用している件に話を戻せば、
このようなケースでは、
多くの場合は被害者自身が声を上げることは難しく、代弁者を必要とする。
現実に存在する被害者の痛みを想像し、共感の想いを寄せ、
人々が批判の声をあげることは至極真っ当なことだ 。

一方で、『ジョーカー』はあくまでもフィクションだが、
アーサーを他でもない“代弁者”だと感じる人は少なくない。
貧困、障がい、虐待の経験を抱え、拠り所や代弁者を求める声もまた、
切り捨てられたり、捨象されたりするべきではない。

こうした痛みと痛みがぶつかり合う複雑な状況下で求められるのは、
互いの間に線を引くロジックではなく、
互いの痛みに想いを寄せる感受性や他者性なのかもしれない。
そしてそれは、
『ジョーカー』という作品の世界には微塵も存在しなかったものだ。
いずれにせよ、ジョーカーが現代社会に突きつけた難題を乗り越え、
分断を埋めていく作業は、映画の登場人物ではなく
現実社会に生きる私たちが担っていかなければならない。
『ジョーカー』に評価を下すのは、それからでも遅くはない。

https://virtualgorillaplus.com/movie/joker-hyouka/



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JOKER [映画]

「どんな時も笑顔で人々を楽しませなさい」
という母の言葉を胸に
コメディアンを夢見る、孤独だが心優しいアーサー。
都会の片隅でピエロメイクの大道芸人をしながら母を助け、
同じアパートに住むソフィーに秘かな好意を抱いている。
笑いのある人生は素晴らしいと信じ、
ドン底から抜け出そうともがくアーサーはなぜ、
狂気溢れる<悪のカリスマ>ジョーカーに変貌したのか?
切なくも衝撃の真実が明かされる!



心が安定してる時に見るのをオススメします
マジで精神持っていくほどの影響力ある映画だと思う

アーサーは幼少期の脳のダメージで
普通の暮らしが出来るか
微妙な精神状態であったことをスルーしてる人ばかりだと思う。
誰もがジョーカーになり得るとか、
アーサーに同情してる人が多いけど
目の前に精神疾患を抱えた人がいたら優しく接する?
そんなこと無いと思うよ。
クラスや職場で変わった人がいたら優しく接してる?
してないよね。
多分ジョーカー以外の話題になったら
平気で他人をバカにして笑う人が大半でしょう。
金持ちとか上級国民がジョーカーを作った一番の要因では無い。

みんな自分がジョーカーになってしまうことばかり心配してるけど、
確率的には「ジョーカーになる」より
「誰かをジョーカーにしてしまう要因(の一部)になる」方が
ずっと可能性高いと思うんだよね。

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『運び屋』(原題: The Mule)は、2018年のアメリカ合衆国の犯罪映画である。
監督と主演はクリント・イーストウッドが務めている。
原案は『ニューヨーク・タイムズ』のサム・ドルニックの記事
「The Sinaloa Cartel's 90-Year-Old Drug Mule」であり、
80歳代でシナロア・カルテルの麻薬の運び屋となった
第二次世界大戦の退役軍人であるレオ・シャープの実話に基づいている。

ーーー

かつて園芸家として名を馳せたアール・ストーン(クリント・イーストウッド)は、
経済的に行き詰まり孤独に暮らしていた。麻薬の運び屋となった彼は、
麻薬取締局のコリン・ベイツ(ブラッドリー・クーパー)に追われながらも、
家族との壊れた関係を修復しようとするのであった。



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