SSブログ

弱者の心 [その他]

●ニーチェのルサンチマン論

ある時、地上に二通りの人間が生まれた。
一つは強者、二つはそれに敵わない弱者である。
弱者は己の力を高め強者に立ち向かうこともできたはずだか、
彼らはそれをしなかった。

彼ら弱者は、しかし別の方法で強者に立ち向かった。
それは「奴隷道徳」の創設…すなわち
「弱者であることが強者であるよりも優れているとされる道徳」
を生み出したことによってである。

奴隷道徳において、弱者は「善人」である。
なぜならこの道徳においては、質素な暮らしを送り、名誉や地位を求めず、
謙虚であり続けることが「善」とされるからである。
なんてことはない、弱者の置かれた生活環境を
そのまま「理想状況」であるとし、卑屈な自己肯定を行ったにすぎない。

これに対して、強者は「悪人」とされる。
強者であるからには他人を蹴落としたり押し退けたりしているはずだ。
強者は弱者を虐げている。
そしてそんな強欲と傲慢にまみれた強者の生活は、
「善」とされる質素かつ謙虚なものとは程遠い、ゆえに「悪」である。

そして、これこそが奴隷道徳が最も目的とするものである。
すなわち、善き生活を送る弱者こそが正しく、
悪しき生活を送る強者は間違っている。
現実では惨めに従属することしかできない弱者は、
奴隷道徳の中においては強者に対して精神的に上位に立つことができる。
こうして倒錯した価値観の中に弱者は永住する。
これにより得られる自己肯定ゆえに、弱者はこの思想を変えることはない。
だが、それゆえ…弱者が弱者であることを肯定し続けるがゆえに、
現実において弱者が強者に従属する日が終わることはない。

---

まぁ物事は見方次第だからな
我々から見て悪人は
第三者から見たときには聖人君子に見えることもある

弱者が強者を覆すなら
その時は強者が弱者の側になるだけなので
永遠と弱者の哲学は変わることはないね

---

●スケープゴート

古代ユダヤ教で
贖罪のために人々がヤギ(ゴート)を生贄にしていたことから、
集団がもつ欲求不満を解消するために、
そのなかの一人を攻撃しようとしる集団心理を指す。
例)私の代わりを務めてくれるスケープゴートが欲しいな。

●酸っぱいブドウの理論

森でブドウを見つけたキツネが、
それを取ろうとして何度もジャンプするが手が届かず、
「あれはおいしいブドウじゃない、酸っぱいブドウだ」
と捨て台詞を吐くというイソップ物語の話から、
本当は欲しくても手に入らないものを不当に低く評価すること。

その後、キツネは帰途にオレンジかと思ってレモンを拾う。
キツネは自分の行動を正当化するため、
「さっきのブドウよりも甘いなあ」と負け惜しみを言う。
たとえ失敗しても自分を納得させることを
「甘いレモンの理論」という。

●ステレオタイプ

無意識に他者をカテゴリーで分けて判断すること。
紋切り型態度、固定化された物事の見方をいう。
例)日本人はメガネや細目などのステレオタイプを強調して描かれている。

---

弱者の立場にいるはずの人間が
強者のふりをして弱者を叩くのが現状

弱者が強者叩くのは、まあそれによって
自分の地位が(少なくとも自分の中では)上がるっていう利益があるから
まだ理解できるわ
弱者が強者のふりして弱者叩くのは理解不能やわ
なんの利益があんねん

弱者の中でも上に立ちたいんや
マウンティングや

ワイは弱者ではあるけど強者よりも道徳的には優れてるから
トータルではワイが勝っとるでみたいな精神勝利のことやな

哲学はほんま勉強すべき学問やで

陰キャが陽キャを見て嫉妬のあまり
「陰キャラこそが正義!陽キャラは悪!」
「陽キャの話はああ見えて表面的で薄っぺらい!
陰キャの話は実は濃くて面白い!」
と言い出すのがルサンチマン
いつの間にかそれが基準になって
「みんな陰キャラのようになれ」と言ってるおかしな教えが
ニーチェにとってのキリスト教

ニーチェは弱者が自分で自分の首絞めてるぞって言いたいんだろ

相対的なもので全員が強者にはなれねんだから
一概に良くないとも思わんわ
破れて強者になれなければ哀れな負け犬
自殺しかないみたいな世の中俺は嫌だよ
だからといって俺より努力してる強者を
僻んで叩くのはみっともないからしたくないけど

ややこしいのはこんな宗教を信仰してた奴らが
他民族殺しまくって世界の覇権取ったことや

弱者が勝手に精神の安寧をはかって向上することをしないから
構造上格差は防げないってこと

金持ちは悪人とか美人は性格悪いとかそういうのやろ?

ダニング=クルーガー効果とは、
能力の低い人物が自らの容姿や発言・行動などについて、
実際よりも高い評価を行ってしまう優越の錯覚を生み出す認知バイアス。
この現象は、人間が自分自身の不適格性を
認識すること(メタ認知)ができないことによって生じる。
優越の錯覚を生み出す認知バイアスは、
能力の高い人物の場合は
外部(=他人)に対する過小評価に起因している。
一方で、能力の低い人物の場合は
内部(=自身)に対する過大評価に起因している。
「なぜ能力の低い人間は自身を素晴らしいと思い込むのか」
という調査によれば、能力の低い人間は
以下のような特徴があることが分かった。
・自身の能力が不足していることを認識できない
・自身の能力の不十分さの程度を認識できない
・他者の能力を正確に推定できない

言いたいことはわかるが
資本主義社会では
強者は弱者から搾取している悪なのでは?
その富を再分配するために共産主義が生まれた訳だし

全ての強者がそうではないやろ
それこそがルサンチマンやないか?

そもそも人間が作った「法」こそが
肉体的弱者のためのものやからな
人間こそがルサンチマンなんや

自然界による弱肉強食から解放された人間は
新たに別の弱肉強食を作り上げたんや

清貧こそ美徳、という教義の連中が
世界中に阿片ばら撒いて文化財略奪しまくって
未だに有色人種から搾取しまくっとるんやから
道徳観念は強さには関係無いわ
善人だろうが悪人だろうが強い奴は強い
ただ強くなればいい

いうほど弱者は強者に立ち向かうことができるか?
労働者が資本家に勝てるのか?

労働者の大半が反乱を選んだときは上手く行くこともあるが
そうなる前に資本家は懐柔してくる
そのへんをシステムとして組み込んだのが団体交渉やらなんやらやな
資本家だって共産主義革命みたいに
金持ちぶち殺せ運動は起こされたくないんや

強者が自分の地位を盤石のものにするために
弱者同士で争わせるのは絶対悪やと思うわ

実際マルクスの言う通りになってる
資本主義の限界

資本主義に限界は感じるが共産主義化は見事に爆死したので
解決策は未だない状況やな
スカイネット待望論も近いわ

人カスに完璧な物なんて作れないんだよね結局欲に溺れるから
AIに支配してもらった方がいいわ

AI万能論は
人の手掛けただけに過ぎないクソアホロボットを
何か神と勘違いしているアホが褒め称えている論理やと思ってるわ

弱者=正義だと考える人同士がぶつかるとき何が醜いって
言い合いとかで俺の方が弱いんだぞ合戦が始まること

「県庁職員が1000時間残業」ってニュースのスレが立ったとき
スレの流れが「日本の労働環境を変えよう」とかじゃなくて
「民間ならこんくらい当たり前、甘えんな」
「残業代満額出てるじゃん、公務員ってホント優遇されてんな」
ってなったの見たとき草生えた
この国の労働環境は一生変わらんわ

ニーチェは著書ごとに主張が二転三転しちゃうけど
それが人間らしくて好き

ニーチェの時代にはまだキリスト教が
実際に権力を持ってる強者だったってことを忘れたらあかんで
ここでニーチェが言いたいのは
キリスト教は今は強者ぶってるけど元を辿ればただの弱者、
強者のふりをした弱者が権力を持っていると
世の中の価値観が歪められて真理が見えなくなる、
だから真に哲学するためにキリスト教なんか邪魔でしかないってことや
だからこの理論を一般化して
現代の弱者や善悪にそのまま当てはめるのはあまり正しくない

共通テーマ:blog